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明治・大正・昭和前期の食生活

1870年(明治3年)明治天皇も発症した脚気は結核と並び二大国民病となり流行します。

1872年(明治5年)明治天皇が初めて牛肉を口にし、1200年に渡る肉食の禁を破り、西洋料理を宮中に採り入れました。
この出来事は文明開化の象徴とされ、西洋食(肉・パン・パスタ)の普及を促進し、カレーライス・オムライス・コロッケ・ビーフシチュー・スキヤキ・トンカツなどの人気料理が誕生しました。

1873年(明治6年)の地租改正により年貢が廃止されると、玄米より早く炊けて、薪も少なく済み、甘くて美味しいことから副食いらず、経済的な白米の習慣が全国の庶民に広がる一方で脚気患者も増えます。

1878年(明治11年)西洋医学と漢方を取り入れた脚気の病院が設立されます。
国際情勢も軍国主義の時代に突入し、多くの兵士が脚気を患いますが、食事によるビタミン不足が原因であることが分からず、伝染病とされていました。

1882年(明治15年)日本最大の戦艦「龍驤(りゅうじょう)」271日(1882/12/19~1883/9/16)の遠洋練習航海では、船員376人中、169人が脚気を発症、そのうち25人が死亡する事態に海軍軍医(医学博士:東京慈恵会医科大学初代院長)で後に「ビタミンの父」と言われた高木兼寛(たかぎ かねひろ 1849~1920年)が1883年10月に脚気病調査委員会を設置。

1884年(明治17年)2月2日全海軍の食事を高木が定めた献立に変更するよう要請し、9日に実施することが通達されました。
また、2月3日、国家予算300万円のうち5万円の予算をかけて、龍驤と同じ航路を戦艦筑波による287日(1884/02/03~1884/11/16)の試験航海が行われ、船員333人中、15人が脚気を発症、死亡なしという成果をあげたことから、後の日清戦争(1894~1895年)において海軍は脚気を発症させることがなくなりました。
しかし、陸軍軍医であった森鴎外などは、細菌説を唱え陸軍の食事を改善しなかったため、戦闘による死傷者1270人に対して、脚気による死者数が4,064人にものぼり、更に日露戦争(1904~1905年)では、兵数999,868人のうち251,682人が脚気になり、戦死者数46,423人のうち27,468人が脚気で死亡(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。
実に、4人に1人が脚気を発症し、36人に1人が脚気で死亡しました。
しかし、陸軍が栄養説を認め食事改善を行ったのは、これより30年も先のビタミンの存在が認められるようになってからでした。

1907年(明治40年)内務省の意向により、軍と財界の関係者が発起人となり、日本の名軍医であり、「食育の開祖」である石塚左玄(1851~1909年)を会長に迎え、玄米菜食を基本に国民の健康改善を目的とした「大日本食養会」を設立。
栄養学がまだないこの時代に石塚左玄は、
●「陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れると病気になる」
●「ナトリウムの多いものは塩の他には魚、カリウムの多いものは野菜と果物」
●「カリウムの少ない精白した米を主食に、ナトリウムの多い副食では、陰陽のバランスは崩れ病気になる」
●「一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる」
●「白い米は粕である」と、玄米菜食をすすめます。

1908年(明治41年)陸軍省に、脚気の原因解明を目的とした「臨時脚気病調査会」を設置。

1910年(明治43年)6月14日 理化学研究所設立者のひとり鈴木梅太郎(1874~1943年)が、ニワトリとハトに白米を与え続けると脚気になり、やがて死んでしまうことから、白米は色々な成分が欠乏しており、糠(ぬか)には動物の生命維持に必要不可欠な栄養素があることが分かり、世界で初めてその栄養成分抽出に成功し「オリザニン」と命名。
これが世界最初のビタミン(ビタミンB1:チアミン)の発見でした。

1911年(明治44年)「臨時脚気病調査会」の陸軍軍医 都築甚之助(つづき じんのすけ )と細菌学者 志賀潔(しが きよし)も、米糠から有効成分を抽出し、これを「アンチベリベリン」と命名。
脚気患者に服用し58.6%の改善に成功します。
因みにこのビタミンも鈴木梅太郎の抽出したものと同じビタミンB1(チアミン)でした。

1912年(明治45年/大正1年)ポーランドの生化学者カジミール・フンクが、鈴木梅太郎と同様のやり方で米糠の有効成分抽出に成功し、「生命に必要なアミン」の発見という意味から「Vital amine(ヴァイタルアミン)」と命名。

1913年(大正2年)アメリカのエルマー・ヴァーナー・マッカラムは、3つのグループに分けた牝牛にトウモロコシ・小麦・カラス麦を与えて飼育した結果、トウモロコシで飼育した牝牛は正常なのに対し、小麦とカラス麦で飼育した牝牛は、体が小さくなり、盲目になり、未熟児を出産、生まれた子牛はまもなく殆どが死んでしまいました。
マッカラムは、寿命の長い牛では研究結果に時間がかかるので、寿命が短く繁殖力のあるネズミを実験に使用し、バターや卵黄の脂肪の中にネズミの成長に不可欠な成分があることを発見、抽出に成功し、「脂溶性A因子」と命名。
ネズミを使ったこの実験方法がマウス実験の礎となりました。

1920年(大正9年)イギリスの化学者ジャック・セシル・ドラモンドが、柑橘果物から抗壊血病因子成分の抽出に成功します。
既にこれら有用成分は「Vital amine(ヴァイタルアミン)」と呼ばれていましたが、今回の発見ではアミン化合物が含まれていなかったことからドラモンドは「Vital amine」ではなく「Vitamin(ビタミン)C」と命名し、更に動物性の「脂溶性A因子」を「ビタミンA」、玄米から発見した水溶性の「Vitamin」を「ビタミンB」、その後に発見されたビタミンには正式な化学構造が判明するまでの仮称としてD, E, Fと順に名付け、更にビタミンBには、非常に似た性質を持つ成分が複数あることから、B1, B2, B3,... と順に名付け、ビタミンB群としました。

1921年(大正10年)慶應大の大森憲太(日本栄養・食糧学会初代会長、慶応義塾大学病院長)と田口勝太が別々に、「脚気はビタミン欠乏症に間違いない」ことを主張。

1925年(大正14年)臨時脚気病調査会は、脚気をビタミン欠乏症と確定し、臨時脚気病調査会を廃止し「脚気病研究会」を創設。

1932年(昭和7年)「脚気病研究会」は、脚気の原因がビタミンB1の欠乏であり、鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」が脚気に特効があることを報告。

1937年(昭和12年)7月、大日本食養会三代目会長に桜沢如一(ゆきかず、若き日はじょいち)が就任し、石塚左玄の化學的食養長壽論を発展させた「マクロビオティック」を世界に発表(「マクロ」は大きい・長い、「ビオ」は生命、 「ティック」は術・学という意味)し、自からの名前も外国人に覚えやすいように「桜沢」を「オーサワ」、「如一」を「ジョージ」としました。

1939年(昭和14年)「大日本食養会本部付属瑞穂病院」の閉鎖を機に桜沢如一「大日本食養会」を脱退。

1942年(昭和17年)国民の基本食を玄米に復帰させることが議題となり、東條英機首相が玄米食であったこともあり、世論が白米から玄米に傾きますが、軍の栄養学者である川島四郎らは、「玄米の消化が白米に劣ること」「炊飯に要する燃料や調理時間が増加すること」を指摘して玄米食に強く反対。
しかし、伝染病研究所から「玄米食によって小食になり、下痢も減り、仕事効率が上がり、医療費が17分の1に減り、経済的である」と反論し、栄養学者を説得。

1942年(昭和17年)厚生省の意向により「大日本食養会」と「家庭国民食中央会」が統合され、社団法人「国民食協会」設立。

1943年(昭和18年)「国民食協会」がバターや砂糖を使った西洋食を推奨し始めたことに対抗し、玄米を健康によい完全食として推奨する運動が起こり、「大日本玄米連盟」なる団体が誕生し、1万人以上が加盟。

1945年(昭和20年)第二次世界大戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって「国民食協会」一部要職の公職追放が行われる。

1946年(昭和21年)国民食協会発行の『国民食』が『食生活』へ誌名を変更し、栄養士・管理栄養士・調理師・食品流通関係者・農林水産業従事者、食に関わる全ての読者に向け、これまでの玄米菜食から西洋食を推進し2015年11月号まで発行。

1946年(昭和21年)日本国内のアメリカ軍兵士の食事をきっかけに、キャベツ・レタス・ブロッコリー・カリフラワー・アスパラなど洋菜の栽培を普及。
終戦後の日本の衛生悪化防止やノミ・シラミ・蚊の防除を理由に、アメリカ軍による農薬散布開始。

1954年(昭和29年)日本本来の玄米菜食主義継承の為、東京大学名誉教授二木謙三博士(文化勲章受章者)を初代会長に日本綜合医学会設立。
明治の食医 石塚左玄の食養思想普及が現在まで継承され続けています。

1955年(昭和30年)頃 断食道場、食事療法、そして玄米食療法を研究していた医師の長岡勝弥が、玄米を消化の優れたものにするにはどうしたら良いか、宗教家高橋信次の助言・指導を受けながら8年の歳月をかけて酵素玄米ご飯を開発。
"玄米と小豆から体内に必要な酵素を作り出し、更に免疫機能を高めたり、抗酸化作用を発揮する有機ゲルマニウムの発生を確認したことを発表し、酵素と有機ゲルマニウムの働きは、大腸での働きを活発にし、便秘・血液の病などに抜群の力を発揮する"と説明*。
酵素玄米ご飯が完成した日に試食することなくこの世を去った高橋信次は、「酵素玄米ご飯は、遠い未来の人が作り方を教えてくれた」との遺言を遺しています。
*酵素玄米ご飯に酵素が含まれる・含まれない/有機ゲルマニウムの発生については、現在に至るまで科学的根拠は公表されていません。

昭和前期の食卓では、麦の混ざった白米・味噌汁・焼き魚・煮物・和え物といった献立を基本として、蕎麦や天婦羅など江戸時代から人気のあった日本食のほか、カレーライスやビーフシチュー、オムライスなどの洋食も食べられていました。


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